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    まぼろしの霊場
常陸(水戸)三十三観音霊場

なぜ三十三観音なのか

 

  観音経の中で、観音様が三十三の化身となって娑婆世界に住むわたしたちを教え導くための方便として姿を変える。

これにちなんで三十三観音信仰が始まったとされます

  常陸三十三観音霊場がいつ、誰が決めたかは知る由もないが、江戸時代に庶民の間で四国八十八カ所や、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヵ所などの霊場めぐりが流行した。しかし四国や西国などは遠方のため、行くことの出来るのはごく限られた人だけであった。

  このため身近な仏閣を巡礼地として近場に編成し、巡ることが行われるようになった。

  常陸観音霊場もそのひとつで、巡礼の地域は現在の茨城町から北茨城、大子、栃木の馬頭町、最後が城里町まで及んだ水戸藩内の寺院が選定されている。今では山の中の過疎地でほとんど人が住んでいない寺院も多くあるが、歴史的に見ると当時は交通の要所で、多くの人が行き来していた事がわかる。

  水戸藩にはかつて二千七百にも及ぶ寺社があったが、光圀の寛文、元禄、斉昭らの天保の改革により七割の寺院が統廃合され、姿を消した。あまりにも極端な廃仏毀釈をやってのけたのである。

  従って廃寺となったのが江戸中期にも発生し、現在まで不明の状態が続いた。

徳川光圀と綱條(つなえだ)の寺社整理

 

   寛文3年(1663)の「鎮守開基帳」によると、水戸藩領の鎮守神社の総数は388社、寺院の数は2377寺もあった。

元和元年(1615)の寺社整理では、1433ケ寺と全体の6割に当たる数を処分した。残ったのは944寺であった。

 「開基帳」は寛文3年に藩内の寺社に対し、境内地、付属地の石高、本寺、宗派、末寺、僧侶の階層、神職の階層、朱印地(年貢免除地)、開基者、開創年代および寛文3年までの年数、付属諸堂宇、檀家や氏子の種類など、各宗派別に13冊の「開基帳」を作成させた。

  寛文5年に江戸幕府は諸宗寺院御法度を布達したが、水戸藩はその前に調査を行った。その目的は「寺社整理」のためであり、この開基帳に基づいて

 1.経営不安定な寺院の破却      檀家の少ない寺など

 2.学僧のいない寺の破却        正式な僧侶でない私度僧など

 3.非合法寺院の破却           正式に認められていない寺院

 4.城下の寺町に存在する寺の破却  武家屋敷として使用するため

 5.淫祠、邪教、不良僧侶、庶民から不当摂取、品行の悪い僧

などを対象に破却した。  これは表向きの正論

 水戸藩内には2,376ケ寺のうちの内1098ケ寺を整理、ほかに神社整理も行い、一郷一社制を定め、今まで神仏混合だった神社から僧侶(別当)を追放し、仏像を破却し、幣か鏡に変えさせた。その数だけで3000もの数を整理している。

  最も酷かったのが八幡神社で、すべての八幡神社を破却した。寺院は祈祷を中心とするものすべてを廃止し、修験、山伏を追放し、還俗させた。そして葬式を中心とする寺院だけが残った。それにより最も民衆と結びつきが深かった祈祷寺院がなくなり、現在では葬式仏教と諭やされる結果となっている。

  寺院は最も処分率の高いのが、行人派(羽黒修験)100%、次に山伏80%、3位は天台宗71%となっている。

  光圀によって祈祷信仰に依拠する宗派が徹底的に潰され、葬祭を中心とした寺院ののみを残した。ところがこの祈祷寺院こそが村鎮守と結びついていた宗派の寺院であった。結果民衆は寺院での拠り所をなくし、次第に寺院から離れていった。村鎮守と別当寺の比率は49.1%と半数を占めている。

  その後も綱継、斉昭らにより、さらに寺社改革が続けられた。

  光圀の意向を継いだ徳川綱條は元禄8年(1675)、領内の神社改めを行い、神社からの仏教色を一掃した。まず僧侶を追放して神官とした。次に神体が仏像である者は取り上げ、幣か鏡に替えさせた。第四に領内最大の勢力を持つ八幡神社を廃社とした。そして一村一社の村社制度を作り上げた。

  これらは正統な理由だけでなく、光圀が重視した儒教の影響による水戸学の成立によって、神仏分離、神道重視、仏教軽視、の風潮が強くなり、すでに水戸藩では幕末を待たず廃仏毀釈が行われた。幕末期には水戸学の影響を強く受けた平田らによる宗教改革が明治政府を廃仏毀釈の大改悪を実行し、大きな影響を与えたのである。

  神道を重んじる極端な政策で、恩恵を受けた神社ではあるが、修験らの祈祷を排除したために、つながりが少なくなった。寺院はまだ檀家がしっかりしている所は、何とか生き残ってはいるものの、神社の方は現在では全国7万社といわれる、わずか3%しか自立できず、副業又は、兼務に頼るわざるを得ない悲惨な形となってしまった。まことに皮肉なことである。

​未元冶甲子の乱

 元冶元年(1864)筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた水戸藩の内乱。尊皇攘夷派と諸生党(幕府軍)との戦いで、県北一体は焼き尽くされ、寺社はもとより、仏像、貴重な資料がすべて失われた。

 このため常陸三十三観音霊場の寺の縁起、寺暦、資料等はほとんど残っていない。

 自寺の歴史さえもわからない状態なので、常陸観音霊場を調べるのには相当の苦労を要した。まだ不明なところも多いが、ようやくその全貌がわかつてきた。

 古文書等現存する資料を探して、推測すると、寺の歴史が全く変わってしまった例も見つかった。まだまだ少ない資料での検索ではあるが、ようやくまとまった形にになった。この貴重な文化的歴史的遺産を後世に残し、霊場の再興を地域の人たちと行って行きたい。

                                                                先達 寺田弘道

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