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まぼろしの霊場・常陸(水戸)三十三観音霊場

第7番札所 正法寺(高岡神社)

 高岡山千手院正法寺

   (たかおかさん せんじゅいん しょうほうじ)      天台宗 廃寺

東茨城郡茨城町長岡3‐2

観音堂本尊 不詳

御詠歌 諸ともに 長きに世かけて長岡の神の宮寺伏し拝むらん

  アクセス 水戸駅北口⑥、南口③関鉄バス、奥谷、石岡行き、長岡小 

        学校前下車5分

  

  観音堂も何もないが、少し離れた北2km程の所に正法寺という名の墓地がありその中に正法寺の墓が存在するが、この墓地は明治期に新たに造られたもの。

  正法寺は旧称を神宮寺という。高岡神社について、「茨城県神社誌」によると、長徳元年(995)9月酒列神社を勧請し、元禄10年(1170)神宮寺を分離したといわれる。「開基帳に天台宗小鶴村如意輪寺門徒 神宮寺」高岡神社僧、前司入道行信が應永23年(1416)甲申(正しくは丙申)建立とみられる。社僧とは別当ともいい、神社に所属し僧形をもって神社の祭祀を執り行う。その居住する寺院を神宮寺という。酒列神社は古くは酒烈磯前薬師菩薩神社といい、本地佛(神の本の姿)は十一面観音である。正法寺の院号からすれば本尊は千手観音かもしれない。

  寛文年間の寺社改革で社僧を廃し、神社として歩むことになる。神宮寺は一旦廃止されたが、元禄年中宥長和尚が中興し、高岡山正法寺を称し、如意輪寺末寺となる。天明の大飢饉によって長岡の農家が半減し、天明七年(1787)には無住となってしまった。安永三年(1774)三月、如意輪寺から寺社奉行所に宛てた「正法寺曳寺諸掛入用覚」が出され、再建されています。正法寺墓地には宥長和尚の墓碑がたっている。

 

「開基帳」によると

長岡村 天台宗小鶴村如意輪寺門徒

除地無証文

一〇寺内高貮石四斗 神社申仕高之内

         神宮寺 平僧

一此寺開基知不申候高岡明神祐僧ニつき御座候、

此明神棟札ニ貮百四拾八年以前應永二十三年甲申ニ皆堂下総前司入道行信殿建立と成候より御座候 其時神宮寺奉行今々書付ガ有候以後江戸但馬守殿迠三代右之明神建立相成候、右高岡明神大祐から當村氏神ニ御座候、故惣百姓寄合毎年九月十九日祭礼仕申候

一百姓旦那二拾五人

如意輪寺末寺 長岡村  御除高之内 一境内 高岡山千手院正法寺                先達 寺田弘道

​           高岡神社

​旧長岡街道(6号国道)よりの入口

​正法寺墓地、明治以降に造られたもの

高岡神社

GPS 36゜18’01.23N 140゜26’06.20”E

​正法寺墓地

GPS 36゜18’30.6”N 140゜26’44.67”E

​  正法寺墓地
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