まぼろしの霊場・常陸(水戸)三十三観音霊場
①
第13番札所 白羽 清水寺
松倉山大聖院清水寺
(まつくらさん だいしょういん せいすいじ) 天台宗 廃寺
常陸太田市白羽町275 松倉山中腹
観音堂本尊 千手観音(室町時代の作)
御詠歌 結び見よ 鄙(ひな)も都も清水寺 名さえ花さえかわらざりけり
ここも入口が判りづらい。白羽スポーツ広場側から来ると天志良波神社看板が全く見えないで通り過ぎてしまう。鳥居の前を左に迂回するように回り、左側の狭い道を登っていくと500m程に階段があり、その上に観音堂がある。古くは白羽山医王寺大聖院と呼ばれた。神仏分離後、大聖院は松倉山の観音(清水寺)別当となる。観音堂は昭和初期に麓に移された。加藤寛斎随筆に「白羽村 松倉山大聖院 観音堂あり、西山公御筆扇子形の板に 山城と国こそかわれ東山流れは同じここも清水」とある。
「新編常陸国誌」に「大聖院 天台宗黒子(関城町)千妙寺末寺 白羽山清水寺ト號ス」とある。
「水府志料 付録」には
白羽村大聖院 黒子千妙寺末
除三拾二石 白羽山醫王寺 大聖院 天台宗
文政5年8月9日看守教明東詰 里ノ宮村太郎衛門ノ子本家ハ里宮明神ノ西野但馬ナリ
其寺延暦14年(793)ノ建立ニテ観音ニ付テ清水寺ノ號アリ、桓武天皇ノ勅額清水寺ト遊バレタルヲ義公ノ時ニ堂中ニ蔵ネタマフ、秀按ニコレハ京ノ清水ノ額ノ写シナルヘキ欤、延暦ト云モ京ノ清水ノ事ケ議傳ル欤、其寺麓ニアリレニ義公ノ時ニ山上ニ移メ再興ナリ故ニ本堂ニ葵ノ紋アリシガ300年許前ニ消失ス故ニ教明剃髪僧ナリ 元ヨリ大聖院ノ檀那ナリ再建ノ云アリ既材ヲ集タリト云 除32石ナレド實ハ35石アリ其収耡スルモノ籾68俵金5両3分餘ありこれを年貢差出スルモ寺社司ニ記シ又自分托鉢メ得タル金ニテ両師僧ノ授タル金百両白羽村平衛門寄附15匁等凡300両にて再造ノ積ナリト云フ
末寺三方村慶寿院、 義公ノご門徒リ寺ニ升ル 当時松倉ヨリ兼帯ス 石那坂地蔵院、久慈村観照院、高貫村将福院、アリ門中ニ白羽村宝照院アリ 白羽山ト省スル事ハ田村将軍征伐ノ時ココニ来リ勝地アルヲ観テ傳教大師ノ法孫善海ト云僧ワ招キ下メ伽藍ヲ創スヘキ地見ラレシニ白羽ノ箭何レヨリカ来リ落ツ将軍タレハ某ノ射レトナル賊ナルベシト云フ 善海ノ曰然ハアラジココニ一字ヲ建ツベシトノ天ノ告ゲナルベシト乃ココニ伽藍ヲ建テ本尊トハ将軍ノ前立ナル一寸八分ノ観音ヲ安置セラレタリコノ故ニコノ白羽山ト號シ後村ノ名ヲ胄セテ白羽村トハ云見ルナリ、今ニ田村塚トモ見ルナリ、其箭ト甲胄ヲ埋メタレ所ナリト云フ、佐竹ノ時ノ古書等タルヲナレ唯佐竹氏寄附ノ大般若アリレバ破壊ヒルヨレニテ本堂地形ヲ築ル時ニ土下ニツチテコミテ鎮護トヒレト云傳リ松倉山トハ義公ノ名付ケタルナリ、義公ノ傳書78通アリ とある
「開基帳」には「天台宗江戸東叡山(上野寛永寺)末寺,医王寺白羽山大聖院」とある。しかし十三番札所の清水寺は、普通には「松倉山」で通っていたようで、江戸末期に書かれた「水戸松岡道程帳」(水戸彰考館所蔵)にも「滝平新田」(日立市)から「松倉」まで三十四町などとある。
現在も地元では松倉山で通っている。
いまも地元の人たちによって毎月17日に観音講が行われている。
寺名は「きよみずでら」で通っていたが、地元の大津さんの研究により「せいすいじ」が正しい呼び名であることが判った
先達 寺田弘道
清水寺観音堂
千手観音
光圀公の武家官位位牌
天白羽神社・清水寺入口
清水寺への道、正面が松倉山
天白羽神社鳥居の手前を
左り迂回して進む
鳥居を迂回して進んだ所い。
②
③
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GPS 36゜34’27.46N 140゜33’10.53E