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​   まぼろしの霊場・常陸(水戸)三十三観音霊場

第18番札所   手綱 能仁寺

 

 妙林山尊法院能仁寺

 (みょうりんさん そんぽういん のうにんじ)           天台宗

高萩市上手綱572 

TEL 0293‐22‐4341

観音堂本尊 十一面観音

御詠歌 ひまの駒 歩みも早し上手綱 かけて御法の道や行くらん

 

  創建は飛鳥時代大宝年中(701~704)、役行者の草創なりという。平安時代の貞観五年(863)慈覚大師の再建。その後、澄円が中興する。江戸時代文化三年(1806)火災で諸堂焼失す。この時、本尊は搬出され消失をまぬがれた。寺には、釈迦三尊がまつられ、本尊の両脇に普賢菩薩と文殊菩薩が会ったが消失し、現在は本尊と十一面観音が保存されている。 同年本堂庫裏再建なる。これ以後の由来沿革不詳という。

  「開基帳」に「天台宗山城国清蓮院末寺 建久3壬子年(1192)中興。当地(下手綱竜子山)の城主手綱太郎の祈願所。「十一面観音は長三尺六寸定朝の作、当国18番札所也」とある。

 江戸時代の元禄9年(1969)に、水戸藩主徳川光圀が能仁寺を訪れ、本尊を見て、保存状態が悪いのを嘆き、修復させた。本尊の台座に光圀の花押の入った銘文が残されていることにより、明らかになった。

  江戸時代の文化年間(1804~1817)松岡領主中山信敬(のぶたか)は、松岡の特に景色のよい場所として、「松岡八景」を指定した。その一つに「能仁寺の晩鐘」がある。 能仁寺は、下手綱、上手綱にかけての広々とした水田地帯を一望できる西側高台にあり、秋の稲穂に夕日がかかるひろびろとした黄金の海原のようで、鐘の音を聞きながら見る風景はすばらしい。しかし戦時中に供出させられ現在はない。

 

  また「松岡地理誌」には「此寺寛文ノ頃マテハ山城国清蓮院ノ末ナリシカ、其後今ノ千妙寺ニナルト里老ノ説ナリ、十一面観音長三尺六寸定朝ノ作也、当国十八番札所也」とある。

 

  遠く高戸の海を望む高台にある。

本尊は釈迦如来 十一面観音立像は定朝作では三尺六寸となっているが、現存するものは長高およそ2m程の大きな仏像である。少し損傷がありガラスケースに入っている。

 

  ここの伝説に、享保(1716~36)のころ、高戸の大咲浪・小咲浪という磯で、伊豆の海夫が鮑を採った。一尺あまりの鮑を抱えた海夫は、なぜか今後この磯では鮑をとるな!といい、能仁寺で剃髪した。それから高戸の海では鮑を採るものはいなくなったという。高戸浜には「万葉集」の「遠妻し高にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし」という歌碑がある。

                    先達 寺田弘道

           能仁寺本堂

​   十一面観音

​    龍子山城 松岡城ともいう

​ GPS 36゜44’06.11N 140゜41’43.83”E

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