まぼろしの霊場・常陸三十三観音霊場
第22番札所 小妻地蔵院
小妻地蔵院
(こつま じぞういん) 真言宗 廃寺
常陸太田市小妻町373入る
観音堂本尊 不詳
御詠歌 南無地蔵と 祈りをかけて小妻寺 契らん二世の頼(も
しきかな
寺も観音堂も存在しない。小さな石塔があり、奥の竹林の中に倒れている石碑には湛如は「天下野圓鏡院住」とある。天下野の壱石四斗の圓鏡院の僧都であったことがわかる。教えられなければ入口も全く分からない。この小さな石塔さえも地元の人も分らないのだ。
営林署先の道を山に突き当たるまで入ると右に山沿いにあぜ道がある。そこを100m程行くと道は山に入るようになる。入るとすぐ左側に小さな50cmほどの石塔が2つがけ土手にへばりつくようにある。これが地蔵院の宝篋印塔だ。その奥に墓石が点在している。 最近林の杉の木を伐採したのだが、そのまま放置されていて、墓石に乗っている。回りは伐採した木の枝と草でおおわれている。
墓石の文字もコケに覆われていて読めなくなっている。
整備を急ぎたい。
地蔵院は初め赤浜(高萩)にあったが、寛文期の寺社改革で当地へ移された。それまでここには東金砂山東清寺末寺の福蔵院があった。
赤浜にあった地蔵院については「松岡地理誌」に
下手綱村
同村大高寺末
真言宗 塩沢山地蔵院源福寺
除地高六斗九升三合
當山ハ元潰寺ノ跡ナルカ元禄十年丁丑(1697)11月恵探法印開山也、赤浜村地蔵院廃寺ニナリ、其跡除地同十三年甲辰(1700)3月大高寺円山上人願ニ依テ源福寺ヘ給ルト云 ○
本尊地蔵菩薩 木佛立像長一尺二寸 弘法大師ノ作、客殿ニ安置ス、 ○薬師如来 木佛坐像一尺二寸 運慶作、
此薬師ハ元ヨリ爰ニ有テ宥徳法印延徳元年己酉(1489)建立ス、今ノ、堂 二間四方高二丈餘 ハ宝暦年中(1751~63)再建スト云、里老ノ説ナリ、 諺ニ曰、雷ノ太鼓
とある。
墓石には 「湛如大僧都」「権大僧都法印宥鑑碑」などの文字が見える 湛如は手習い(習字)の師匠をしていたらしく、安永七年(1778)に没した。建立者は五名(長蔵、政吉、与茂吉、利平、勝十)の筆弟である。
「開基帳」では真言宗三蔵寺福蔵院とあり、その福蔵寺を潰して高萩の大高寺末寺 地蔵院を引いたという。
真言宗 三蔵寺福蔵院 真言宗恵定院門徒
無住 地蔵院
此寺者天文元壬辰年(1532)8月立申候、当卯迄百三十二年、除地無御座百庄屋敷属御座候後跡々
御城へお目見得不仕 とある。
また「新編常陸国誌」 付録には
常陸三十三観音霊場 第22番札所
小妻 地蔵院 赤浜村
先高無□□石冶証文花房助文文御縄ニ見捨
下手綱大高寺末
一〇高 六斗九升三合 寺内
同所高 七斗九升八合 □□免 此寺小高村成
永正九壬申年(1512)定隆ト申僧開山仕候当卯迄壱百六拾弐年檀那弐百六拾九人、廿六年以来大殿様ヘ御目見得仕候侍中仕候 とある。
圓鏡院について「開基帳」には、
圓鏡院 金砂山新幡寺
一〇 高壱石四斗
此寺開基者文安丙寅年(1440~49)2月立申候 当卯迄
弐百八年後跡々
御城ニ御目見得仕御座候門徒一ケ寺檀那四百八拾八人
「新編常陸国誌」 村落 には
「天下野」 「圓鏡院」真言宗茨城郡水戸宝鏡院末、
金砂山新幡寺ト號ス
除地壱石四斗
とある。
墓石には「権大僧都湛如 天下野 圓鏡院住」とあり
5名の筆弟の名が刻まれている。
先達 寺田弘道
地蔵院の宝筐印塔
林の仲に転げている墓石
権大僧都法印宥鑑の碑
湛如大僧都 5名の筆弟(長蔵、政吉、与茂吉、利平、勝十)の名が記されている。
この突き当りを右に入る
国道245小妻営林署前先の入口
小妻営林署前T字路
宝筐印塔の文字
突き当りを右すすむと左の山に入る。すぐ左側に宝筐印塔、左の林の中に墓石がある。 奥は個人の墓地である。
加藤寛斎「北部里程関数之記」にある天下野の圓鏡院
GPS 36゜46’02.37”N 140゜28’55.86”E