まぼろしの霊場・常陸三十三観音霊場
第2番札所 勝田光明寺
龍虎山密蔵院光明寺
(りゅうこさん みつぞういん こうみょうじ) 真言宗
ひたちなか市堀口641
TEL029‐272‐5038
観音堂本尊十一面観音 秘佛
御詠歌 堀口に 流るる水をたずね見よ 絶えぬ光の御寺なりけり
総本山を京都の東山山麓にある智積院とする真言宗智山派のお寺である。天仁元年(1108)真言宗として開基。開基の場所は那珂郡経田野村(ひたちなか市部田野)。その後延文元年(1356南北朝)白木上人(時宗の九祖)が常陸湯遊行の時の帰依を受け時宗として開基され、次いで應永3年(1396室町時代)時の国主江戸但馬守より栄銭53貫文の寄進があり当村地蔵町(山の上)に移築された。しかし災禍に遭い一人の僧が分派して堀口に移り、天正十九年(1573)佐竹公により永銭27貫文の寄進があり現在地に再興された。幾たびかの被災に逢い詳細な寺史は不明という。「新編常陸国誌」によると「龍虎山密蔵院トス、島崎村(北茨城市)ニアリ、脇寮一ケ寺、普賢院ト云フ、末寺二ケ寺アリ」とある。
この縁起は湊光明寺と山の上まで同じ、遊行白木上人は時宗の遊行寺住職で常陸遊行の時、経田野(ひたちなか市部田野)に寺があった時の住職相阿弥陀仏の帰依により、延文元年に時宗として開基したものと思われる。山の上時代に分派して別れ真言宗として再興されたらしい。
「開基帳」には、観音は八方というところに先年建設したが、開基の年代はあきらかでない。ただし慶順という僧が永正13年(1516)に再興したという棟札がある。この八方の地はおそらく館の意味で、大掾一族の吉田堀口の館をさすのだろう。という。この寺が広徳寺、観音寺、清水寺の3つの寺のどれかははっきりしない。広徳寺は観音寺を引き継いでいたと思われ、額田の乱で炎上し、その時法流なども焼失し由緒もわからないという。天正19年(1573)に佐竹公より永27貫文の寄進を受け、現在地に移された。寛文3年に寺社整理になつた八方山広徳寺を引き継いだと思われる。
その後江戸初期に北茨城島崎より龍子山蜜蔵院光明寺を引寺したらしい。元治甲子の乱により堂宇は鳥有に帰した。明治12年に建立された仮堂は老朽化がひどく、昭和46年7月に建て替えられた。旧観音堂は草茅入母屋造り間口四方で、周りに欄干をめぐらしていた。近年建て替えられている。
観音堂の御本尊は聖徳太子の作と云われ長1尺の十一面観音像であり、悪七兵衛(平景清)の持護仏であったと伝えられている。60年に一度しか御開帳しないという秘仏で、前回の御開帳は昭和7年3月19日と平成4年であった。
先達 寺田弘道
北茨城の島崎、光明寺はここあった光明院から引寺された
GPS 36゜23’22.12N 140゜30’53.89E
光明寺観音堂
お前立聖観音
光明寺本堂内部
光明寺本堂