まぼろしの霊場・常陸三十三観音霊場
第25番札所 醍醐 永源寺
臥雲山永源寺
(がうんさん えいげんじ) 曹洞宗
久慈郡大子町1571
電話0295‐72‐0494
永源寺本尊 釈迦如来
観音堂本尊 不詳
御詠歌 村の名も 大子と聞けばこの寺の 妙なる法の道を尋ねん
観音像は市内金町にある観音堂に祀られている。元治甲子の乱の折、堂宇は焼失したが、檀家の益子氏によって観音様は運び出され無事だった。しかし寺の再建が進まないため、元より金町にあった観音堂に観音像を祀って現在に至っている。
永源寺の開基は「文安三年(1446)禅宗茂木村(栃木県)能寿院末寺 文安三年丙年(1446)。
永源寺は初め、小山(大子一高の裏)に開山。開基は佐竹氏の臣、本田外記。一説には水戸藩宮寺氏の祖、菊池藤馬ともいわれる。禄高は除地六石余、百姓地十二石であった。承應三年(1654)に現在地に再建したといわれる。
「常陸紀行」に「巨鐘あり、益子氏傑山秀英居士の寄附たり、また当寺(永源寺)はじめて住職入院の式は余(黒崎貞孝)が家より山内へ入院せる古例たり」とある
この25番札所を近年になって月居山光明院とする誤説が出回り、ネットで広まってしまった。
原因はよくわからないが、一部の札所の案内書に間違った情報が配られ、それを見た人がネットに掲載したらしい。
前田香径という民俗学者が昭和14年に「袋田の山水」という著書で25番を月居山光明寺としたらしい。その根拠は全くわからず、いずれの文献、地元の寺院等の記録からも、このような事実は出てこない。私も現地に足を運び、月居山の遺跡を調べたが、そのような記録は見つけられなかった。
麓の龍泰院の記録には、月居山光明院は元冶甲子の乱の時、幕府軍が攻め落とした。その時観音像は信者によって麓の龍泰院に疎開して無事であった。昭和14年に月居山観音堂が再建されたため、78年間預かっていた観音像が、盛大な行列と共に戻された年という。
前田香径が何を根拠にこうした誤説を載せたのか不可解である。往々にして、学者といわれる方々は、文献だけを頼りに、現地調査もせず、発表することが多いそうだ。こうした誤説ははなはだ迷惑である。
常陸観音霊場の札所は、延享4年に水戸吉沼観音寺から出された案内書に25番は永源寺とはっきり書かれている。
札所の永源寺でもこの誤説については憤慨している。
このたびの調査で月居山光明寺は何の関係もないことがはっきりとしたのである。
ネットで配信している方にも訂正をお願いしたい。
先達 寺田弘道
永源寺本堂
本尊の釈迦三尊像
観音菩薩石造
永源寺はもみじ寺として有名
何の関係もない月居山観音堂
GPS 36゜46’22.66”N 140゜20’39.53”E