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​まぼろしの霊場・常陸三十三観音霊場

第25番札所  観音大士
                          (かんのんだいし) 

大子町大子金町597‐2
 

永源寺の観音様は現在この観音堂に安置されている

  元冶甲子の乱の時、堂宇は焼失したが、観音像は檀家の益子氏によって運び出され、無事であった。永源寺の再建が進まないでいたので、元々ここにあった観音堂に観音像を祀って今日に至っている。

  文和二年(1353)益子氏の初代出雲の守貞政は、大子に構壘して館砦をめぐらし一帯を統治した。これより十代二百五十年後の慶長年中、志摩守宗重が、鬼門の場所としてここに観音堂を長岡の地に稲荷神社を建てた。

  宗重の子兼継は水戸藩成立後、ただちに郷士として用いられ以後幕末まで十代、百石を領してこの地に君臨した。元治甲子の乱の折、永源寺の観音様もここに疎開して現財にいたっている。益子氏の末裔、阿部さんらにより毎年7月9日に御開帳が行われている。境内には宝篋印塔などが数基残っており、益子氏の墓所としての歴史の深さをかたっている。堂宇の天井には絵師、中橋狩野家二世源元信の描いた龍の絵があったとされるが、いつの頃か失われてしまった。現在の絵は近年書き直されたものである。厨子の扉には鳥獣が描かれた古い絵が残っている。


  25番については前田香径が昭和14年発行の著書「袋田の山水」で月居観音堂とした異説があるが、根拠に乏しく、なぜ昭和になってこのような異説が飛び出したのか不可解である。永源寺の伝承は間違いなく二十五番札所は永源寺である。
現在ここは益子家の末裔の方が守っている。毎年7月9日に御開帳が行われる

                                             先達 寺田弘道

​      観音大士

​      聖観音

​階段の右、25番札所の碑

​       天女の絵

​     天井の絵は近年書き直されたもの

​    GPS 36゜46’22.66”N 140゜21’21.19”E

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