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​まぼろしの霊場・常陸三十三観音霊場

第26番札所  芦野倉 南辺寺

 明照山普賢院南遍寺

 (みょうしょうさん ふげんいん なんぺんじ) 真言宗 廃寺

大子町芦野倉891 墓地の中

観音堂本尊 不詳

御詠歌 さりとては 東も西も北もなし いずれ南のほとりなるらん

  寺も観音堂も存在しない。芦野倉の寺山と呼ばれるお墓の中に石碑が存在する。道路左側に大谷石の蔵の前に当国二十六番碑がある。そこはお墓への道だ。這いつくばるように登ると開けた墓地の真ん中に「南辺寺跡」の石碑群がある。近年整備されたようだ。

 

  「開基帳に下金沢性徳寺末寺 普賢院明照山南辺寺。開基は弘治三丁巳年(1557)とある。明和四年(1767)の巡拝塔があり、銘文に(奉供養秩父坂東西国当国順礼処」とある

 

  「開基帳」

 芦野倉村

 下金沢村性徳寺末寺  普賢院明照山南遍寺  平僧

 除無記

 一〇高八斗一升三合

 此寺弘治三丁己(1557)3月13日立申候

 当卯迄107年後跡々、御目見得仕候 門徒一ケ寺旦那八十人

「中興法印隆精墓」天明五年(1785)宝暦九年(1759)「寛海法印」の墓石「庚申塚」「廿六夜塔」「百堂念佛塔」などもある。

  「水府志料」に館跡 戸中坪といふに在。永享の頃(1430~)、木澤源五郎といふ者住すといへり。其孫百姓平左衛なる者、今に其地を持傳ふ。

源五郎創立に、慶福寺と云ふ云阿弥陀堂あり。水戸義公淫祠を毀ち給ふ時。此堂も其中にあり。右其慶福寺阿弥陀堂棟木のよしにて、今に持傳ふ。是によれば、永享の頃も奥州の地なりとみへたり。」

 

    慶福寺

容顔甚奇妙 我適超世願  大檀那慶泉同女性明什代読木澤源五郎

光明照十方 必至無上道  第2品国奥州寄神保内芦野倉村

我邁曾供養 斯語不満足  奉造立阿弥陀堂聖人栄祐如斯

今復還親近 誓不成正覚  永享八丙辰九月十日

とあり、慶福寺の創設は開田村の自在院へ引く前のことかも。

  「常陸紀行」  南遍寺晩鐘

 江 村 遠 許 止   野 院 □ 鐘 起

 暮 鴉 胤 似 蠅   翻 在 炊 煙 裡

 芦野倉あり。村名倉の字あるは昔時屯倉の設ふりし地なるべきよし。

 前に論次せり。此村に木澤氏あり。奮家たり。又醫家金沢氏あり。産  

 術を先とし性篤厚。余が幼年竹馬の友なり。俳歌を好み松江と號せ 

 り。 とある。

 「新編常陸国誌」  故蹟

 「芦野倉館祉」 

 久慈郡蘆野倉村戸中ト云フ所ニアリ、永享ノ頃、木澤源五郎住スト云 

 リ、其子孫百姓平左衛門今ニ此地ヲ傳フ、

 

 「木澤氏館祉」

 久慈郡蘆野倉村戸中ト云フ所ニアリ、応永ノ頃、木澤氏法名慶泉ト云

 フ者ココニ居ル、其子源五郎和讀デ居住ス、永享中ナリ、慶福寺棟札、木澤氏家記孫世々コノ所ニ居レリ、コレモ永正以後ハ佐竹ニ従ヒシト見ユ、其裔木澤氏民間ニ下ルトイヘドモ、今ニ其地ノ主ナリ。

 「戸中要害」とは木澤氏館のこと  大御町

芦野倉字戸中要害にあり、谷を挟んで妙見

山の南側にあった。この城の東側の尾根辺

りまで林道が延び手いるのが見えるがこれ

が入口であるというが、現在では見つけづ

らいという。(戸中要害の詳細は余語君の

ホームページを参照してください。)

 「芦野倉城」 大子町芦野倉字御城267

 国道461号から芦野倉に入ると突き当

たりに、比高15mほどの大地に、洒落た

アパート群が建っている。このあたりが

「御城」という地名であり、芦野倉城のあ

とである。

 応永の頃、木澤氏で法名を慶泉という

者が住んだと言う。慶泉は木澤源五郎の

父親というから、源五郎が芦野倉城を築

く前の居館ということだろうか。

 芦野倉城は、南部の佐竹氏の脅威に

備えて、白河結城氏が築いた城の1つで

あるという。城主として木澤源五郎の名

が伝えられている。

          先達 寺田弘道

寺山墓地の真ん中にある南遍寺の碑

​ 南遍寺への南側入口

​      北側入口

​       芦野倉城跡

​ 源五郎の末裔木澤宅さん宅

​ 戸中要害(余語くんのホームページより)

​ 芦野倉城(余語くんのホームページより)

​ GPS 36゜47’17.96”N 140゜18’29.52”E

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