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まぼろしの霊場常陸(水戸)三十三観音霊場

第4番札所  吉田 清巌寺

  西月山東照院清巌寺

  (さいげつさん とうしょういん せいがんじ)        浄土宗   

 

水戸市元吉田3240

TEL029‐247‐6070   

観音堂本尊 聖観音

御詠歌 乙女子が 衣とや見ん晴ごとに 清き岩にかかる霞は

 

  アクセス 水戸駅北口③関鉄バスのりば、吉沢車庫行、茨城町 

        行、免許センター行乗車、「台町3丁目」下車1分

 

  清巌寺は瓜連の常福寺の末寺で、大永元年(1521)常福寺の八世空誉上人が初め新宿村(常陸太田市誉田)に開基したのがはじまりである。その後火災のため焼失、文禄3年(1594)現在地に移ったという。また一説では酒門村大和田から移ったともいわれている。大和田は酒門旧道とけやき台からの新道が交差する子安稲荷神社付近である。また大和田冶右衛門宗貞が慶安年中に鐘を寄進したともある。その間江戸但馬の守道明は堂宇を建立して、清巌寺の発展を計った。年号からすると水戸に移っていた時であろう。再興されてからは、明治十五年のほか修理は何度も行われている。本尊の阿弥陀如来は仏師の春日作と云われる。「水府寺社便覧」によると、當寺の開基(中興)は埔を江戸但馬守忠道の御室婦新田此小書輿下當寺藤原の鋳通の息女にて天正三年乙亥三月弐拾五日に逝去法号華覺院菓獄清岩称定尼の開基也別当寺に葬送有りと見えたり又亘吉純小大職冠法胤摂政基継公懸孫那珂五郎江戸但馬守通泰九代法胤江戸但馬守とあることから、寺号の由来がわかる。

  「開基帳」に

吉田臺町 浄土宗瓜連村常福寺末寺 西月山東照院清巌寺 

住持上人将誉

除地無証文

一〇 寺領無所也當山

一〇 此寺開基瓜連村常福寺八代目空誉上人と申先印大永元已辛年(1521)新宿村之門古館と申所大檀那江戸但馬守子孫ニ戒名月山清巌為菩提建立仕□□所ニ□□者七堂がらんニ視覚□由右寺古館ニ□火事申ニ付文禄三子申年(1549)吉田臺町ニ引越申候、當卯迄百四十四年程ニ乙然空誉大□□年ヨリ當卯迄百四十四年相成候

一開基より□□僧之八代目□□□

一末寺無夘□□

一門徒一ケ寺御座候

一旦那待人□御座候

一□□御城ニ御目見仕候

とある。

   観音札所として清巌寺は、民間の信仰を集めていた。「延享四年(1747)に水戸市城下下市の瀧田三右衛門、山田与惣衛門、茂柿与四郎が刊行した「水戸三十三札所」の中に清巌寺も入っていて、このころは立派な観音堂もあった。昔は春の開花には枝垂桜が咲いて、とても美しく遠 遠近の人々が花見をかねて多くあったという。観音堂がなくなってからはその跡に「こぶとり地蔵」が西念寺から移され、実際にこぶがとれると評判で信仰をあつめていたという。また境内には地蔵堂がある、この地蔵菩薩もかつては多くの信仰を受け、安産、子育ての信仰はもちろん火伏の仏様としても祈願されている。

                 先達 寺田弘道

 

  

 ここの墓地には、江戸時代水戸が生んだ天才画家・林十江の墓と、結城寅寿の墓もある。結城寅寿は水戸藩執政をつとめたこともある重役であった。また、とくに林十江の墓は、長いこと無縁佛にいたのを発見されて、立派に 整備されている

​     聖観音

​    清巖寺観音堂

​ 清巖寺本堂と観音堂

​  本堂内部

​  清巖寺正門

観音堂と延命地蔵堂

​延命地蔵堂内にある「こぶとり地蔵」

​GPS 36゜21’29.1”N 140゜25’01.6”E

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